神倉神社−御朱印、御朱印帳、駐車場情報

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熊野速玉大社から車で10分で行ける距離にあります。一部細い道を通りますが、無料駐車場がありますので安心してください。

なお、神倉神社の石段は急勾配です。年配の方やお子様はご注意下さい。

神倉神社とは?

熊野三山の一山である熊野速玉大社摂社。境内地は国の史跡「熊野三山」の一部、および世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の一部です。

新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(標高120m)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっています。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられ、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければなりません。

山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られています。この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられています

歴史

熊野信仰が盛んになると、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。この説に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称されました。平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野参詣記にもいく度かその名が登場します。『平家物語』巻一〇の平維盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られます

鎌倉時代の建長3年(1251)2月14日には火災により消失したが、執権の北条時頼より助成を与えられて再建されました。中世の神倉神社は、神倉聖と称される社僧のほか、その下役の残位坊、妙心寺(妙心尼寺)・華厳院・宝積院・三学院の神倉本願四ヵ寺が運営に当たり(『紀伊続風土記』)、中の地蔵堂・参道・曼荼羅堂などの維持管理にありました南北朝時代の動乱による荒廃の後はもっぱら妙心尼寺が勧進権を掌握しました。享禄4年(1531)付の古記録「神倉再造由緒」は、持統天皇の時代に裸行上人により神倉山の神社仏閣は建立されたとが、その後荒廃したため、延徳元年(1489)に妙心尼寺の妙順尼が神倉神社の再興のための勧進を行い、さらに大永年間(1521-1528)から享禄4年まで弟子の祐珍尼らとともに諸国を巡って奉加を募り、これによって再興が成し遂げられました(『妙心寺文書』)戦国時代から近世初期にかけても度々災害に見舞われていますが、なかでも天正16年(1588)には、豊臣秀長の木材奉行によって放火され、境内がことごとく焼失しました。翌年には祐心尼のほか、金蔵坊祐信(当山派)および熊野新宮の楽浄坊行満(本山派)の2人の修験者の協力を得て西国9ヶ国に勧進に赴いています

近世以降は、紀州徳川家や、新宮領主の浅野氏水野氏の崇敬をあつめました。慶長7年(1602)には浅野氏より社領として63を与えられたほか、正保2年(1645)には一年の祈祷料として、米3石6と燈明料米1石8斗が与えられたとの記録が残っております。

『紀伊続風土記』が伝えるところによると、近世の境内には社殿と並宮のほか、崖上に掛造の拝殿があり、大黒天を祀る御供所、末社として満山社、子安社、中の地蔵堂などがあったが明治3年(1870)年の台風で倒壊し、、その後荒廃したため、1907明治40年)年には、熊野速玉大社に合祀されました。しかし、1918大正7年)年、岩下に祠を再建したのを手始めに、昭和期に社務所、鳥居などが再建されました。現在は社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社の境外社の扱いであります。

御朱印など

朱印や御札などは熊野速玉大社の社務所で取り扱っています。

ここではもらえませんのでご注意下さい

熊野速玉大社に御朱印をアップしてます。そちらを参照して下さい。

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駐車場

6台止められるスペースがあります。無料です。

時間が7時〜19時となってます。

車での行き方

裁判所南の信号で曲がります。

 

そこから細い道です。

あとは地図を見てください。

基本情報

住所 〒647−0044 和歌山県新宮市神倉1−13−8
 拝観料 無料
 参拝時間 7時〜19時
 駐車場 6台
 トイレ あり
 交通 JR紀勢本線新宮駅下車、熊野交通路線バスで「裁判所前」下車。

新宮駅から徒歩20分

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